ケインズはなぜホワイト案を承認するに至ったのか
・1943年6月29日
ホワイト案を土台にして通貨体制案を考察するに至っているのは、イギリス側の大きな譲歩を物語るものである。
しかしこのなかでケインズは、ユニタスを貨幣化することを考え始めている(しかしそれはp.308のIIの(i)ぐらいの弱いものであった)。
・1943年7月19日 イーディ宛手紙
ここでは決裂も辞さず、という強い姿勢が示されている。とくにp.317の4の(ii)およびp.318-9の(ii)では多角的清算が強調されている。
・1943年9月21日 ホワイト宛
ここでは基金(SF)をかなりICU的に改組する試みが示されている。
・1943年9月29日
米英両国の会議でのp.348でのケインズの提案(それはユニタスの貨幣化)が示されている。
・1943年10月3日 イーディ宛
ユニタスの貨幣化にたいするアメリカ側の反対が強く、しかもその理由が不可解であるとしてケインズの怒りが示されている(p.359, 360)。
米英間の関係は最悪の状況に陥っている。
・1943年10月12日
ここでは、本文からはユニタスは消え、イギリス側の補足説明的箇所であるp.389の4と6ではユニタスで語られている、という風変わりな文書になっている。
・1943年12月7日
ここでは、「貨幣化されたユニタス・バージョン」にこだわるべきであるという考えに賛意を表明しつつも(p.393)それにこだわって交渉決裂に至ってしまうことになるのでは賛成できないと述べ、さらに、(移行期について)it is essential that we should be sufficiently protected in the draft Statement of Principles,...といった意見が表明されている。これは注目すべきケインズのリアリスト的スタンスの表明である(p.394)。
・1944年2月7日
ここに至ると、ケインズはアメリカ側の案をほとんど承認している。これは「ユニタスの国際貨幣化」という試みの事実上の挫折である。p.405ー406に書かれている、国際通貨単位の存在はもう問題ではない的発言をみよ。
この変化は、第1に、ケインズが理想とする国際通貨体制を当初はICUで、しかし途中からはSFに賛成しつつもユニタスを国際通貨に換える試みに切り替えたものの、これも成功することがなかった。
ケインズは、他方でプラグマティストという側面、および大英帝国の権益をいかに守るかという側面をあわせもっていた。
この点が顕著にあらわれているのが、上述のp.394での表明であるが、それ以降、
第1に、p.408下からl.14でのわれわれの「本心」(what is in our minds)であり、第2に、p.408の"concrete example"である。
・1944年2月23日 大蔵大臣宛書簡
ここでのpp.411-412にかけての発言は、第3の証左として提示できよう。(ii) An Anglo-American bloc offered as an international scheme
である(この表現だが、「国際企画として提示されている英米ブロック」、となっている。ありていに言えば、国際企画だが、事実上英米ブロックという認識である。国際企画の体裁をとった英米ブロックと読める)。ここに至ると、国際計画が英米ブロックとして提案されることがイギリスにとっても極めて有利であることを露骨に示している。
p.411をみると、「貿易・通貨の帝国ブロック」案は、大英帝国の解体をもたらすいい方法になってしまう、として反対を表明している(カナダ、南アフリカ、インドなどがほとんどそれに反対しているという事実があげられている)。イギリスはきわめて財政的にも欠乏した弱い状態で終戦を迎えるという点が強く認識されており、そのためにはアメリカからの多額の援助が保証・確約されることが喫緊の問題である、とケインズは考えるに至っている。
・1944年4月22日
ここに至るとバンコールやユニタスはなくともいいかのような論調になっている。
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ケインズは理想としてはICUを望んでいた。しかしアメリカはSFで押してきたので、ケインズはそれを受け入れたうえで、ユニタスの国際貨幣化をその枠組みの中で(ICUのようにすることは無理であった。組織原理が異なるからである。ICUは金融機関、SFは「基金」である)行おうと努めた。が、アメリカ側はそれを受け入れなかった。そこでイギリスのおかれているきわめて弱い財政的な状況からも、アメリカからの巨額の資金援助が受けられるという確約(レンド・リースにつづく制度)があれば、アメリカ案を受け入れることもやぶさかではない、・・・ケインズはそう考えたのだ、と思う。
こうしたリアリストというかプラグマティストの側面は、救済問題の際にも明確に現れていたことは、他の論考(History of Economics Review)で示したとおりである。